だから私は嘘を吐く

「C.C.さんは、羊水の記憶というものをご存知でしょうか?」
「羊水?」
 目の前で微笑んでいる少女を見て、C.C.は不思議そうな顔で首を傾げた。
「ええ。言葉のとおり、母の胎内にいるときの記憶のことです。私にはその記憶があります。と言っても、羊水の海でたゆたっていたときのことを全て覚えているなんて馬鹿げたことを言いたいわけではありません。私は、お母様のお腹の中にいたとき、外からかけられた優しい声を覚えているだけなのです。私の、たった一人の大切なお兄様の声を」
「ルルーシュの、か……どんな声だ?」
「うーん、そうですね……君は女の子なんだね、楽しみだな。君の名前が決まったよ、ナナリーだ。僕が守ってあげるから、怖いことなんて何もないよ。だから早く生まれておいで。君の目や髪は、どんな色をしているんだろうね。僕とお揃いだったらいいな……大体こんな感じですね」
「生まれる前からそれか。あいつのシスコンは筋金入りだな」
「ふふ、そうですね」
 呆れたようなC.C.に、ナナリーは軽やかな笑みを浮かべて返した。
「私がお母様のお腹にいたころと言えば、お兄様もまだ3歳の子供でしたから、普通なら生まれてくる子供に嫉妬するものらしいんですけれど、お兄様は全然そんなことはなかったそうなんです。私はお母様のお腹にいましたから、外のことなんて分かるはずありませんでした。でもそのことだけは、私に話しかけてきてくれる声から分かっていました。だから私は、早く生まれてお兄様に会いたいと、羊水の中でずっと思っていたのです」
「それで?念願かなってこの世に生まれ出でたとき、お前は何を考えた?」
「さあ?分かりません」
 分からないの一言でばっさりと切り捨てられて、C.C.は間の抜けた顔になる。
「……は?」
 それにかまわず、ナナリーはにこにこと穏やかな笑みを浮かべながら言った。
「だって、生まれてすぐのときのことなんて、覚えているわけがないでしょう?」
「……羊水の記憶とやらはあるのにか?」
「ええ、そうなんです。羊水の記憶はあっても、生まれてから数年間の記憶は、他の子供たちがそうであるように、私の中にもほとんどありません。ふふ、おかしなことでしょう?生まれる前のことは覚えているのに、生まれてからのことを覚えていないなんて」
「……まあ、あまり一般的なことではないんじゃないのか?」
「はっきり申し上げてくださってもかまいませんよ?羊水の記憶なんて、何かの勘違いなんじゃないのか、って。そう思われるのなら、それで結構。所詮人の記憶なんてものは、ひどくあやふやで捻じ曲がりやすいものですから。……けれどその人がそう信じている限り、たとえ偽の記憶であっても、それはその人にとって真実に違いないのです。だから誰がなんと言おうと、私が信じている限り、あの記憶は私の真実であり続けます」
「そうか」
「ええ」
 小さく頷いて、ナナリーは笑顔をやめて、少し憂鬱そうな表情を浮かべた。
「そんなふうに、お兄様は私が生まれる前から、私のことを愛してくださっていました。私もまた、お兄様のことが大好きで、それはもう物心付かないほど小さなころからお兄様にべったりの子供だったそうです。でも、お兄様のことを好いているのは、私だけではありませんでした。それも当然のことです。お兄様は、まだ十歳にもならない子供のころから、とても美しい方でしたから。……白雪姫は、C.C.さんもご存知ですよね?」
「ん?ああ、それぐらい知っているさ」
「初めて白雪姫のお話を聞いたとき、まるでお兄様みたいだと私は思いました。雪のように白い肌、黒檀のように黒い髪と瞳、血のように赤い唇……お兄様の瞳の色は黒じゃなくて紫なんですけど、お姫様みたいに綺麗なお兄様にはピッタリだと思ったんです。でもお姫様みたいに綺麗と言うより、お兄様はお姫様なんかよりもずっと綺麗と言ったほうが正しいですね。だって、本物のお姫様であるはずのどのお義姉様たちよりもずっと、お兄様は飛びぬけて綺麗でしたから」
 ほう、とため息を吐いたナナリーは、複雑そうな顔をして続ける。
「私はそんなお兄様のことが誇らしくて、同時にひどく憎らしくもありました。だって、お兄様がもっと平凡な容姿をしていれば、変な虫が群がってくるようなこともなかったのですから、私がそう思っても無理はありませんでしょう?他の皇子皇女、貴族の子弟たち――お兄様に群がる虫はたくさんいましたが、その中でも私が一番嫌いだったのは、ユフィ義姉様です。ユフィ義姉様は、お兄様の初恋の方でした。もちろん、ユフィ義姉様と私のどちらかしか選べない状況に立てば、お兄様が選ぶのは私だという自信がありました。私の一番がお兄様であるように、お兄様の一番も私なのです。自惚れでも何でもなく、私はそれを事実として知っています」
 言葉通り、自惚れるでもなく、ただ淡々と述べるナナリー。
 そして不意に、彼女は暗い顔になった。
「でも、嫌なんです。私の一番はお兄様、二番も三番も、好きなのはお兄様だけ。お兄様以外の方なんて、私にとっては本当にどうでもいいのに……お兄様にとっては違うんです。お兄様の一番は確かに私ですけれど、二番と三番には違う人が来ます。私にはそれが、ひどく堪えがたいものに感じられました。……だから、日本に行くことになったときは、お兄様の心を慮れば不謹慎なことですけれど、私はこっそり喜びすらしました」
「本当に不謹慎だな。マリアンヌが死んだのに、何も感じなかったのか?」
「お母様のことは確かに悲しかったですが、お母様とお兄様を天秤にかけるなんてことがどうしてできましょう?お兄様は、私の唯一ですのに」
「死ぬために送られたようなものなのに、それについては何も思わなかったのか?」
「お兄様と一緒に死ぬことができるのなら、それは私の本望ですもの」
 ナナリーはにっこりと、まるで春の日差しのように温かい笑みを浮かべた。話の内容と、あまりに不似合いな笑みだ。
「お母様が殺されて、お兄様は自分と私のこと以外、誰も信じようとしなくなりました。だから本当に、あのとき私は幸せだったんです。やっと、お兄様が私だけのものになったんだと思いました。それなのに……スザクさんが現れた。お兄様は、スザクさんのことを大切な友人として、自分の中に入れてしまわれたんです!ああ、何てことでしょう!ユフィ義姉様よりも、スザクさんは唯一信頼できる他人として、初めての友達として、お兄様の特別になってしまったのです!……だから私、本当はスザクさんのことなんて大嫌い。ユフィ義姉様よりも、世界に存在するどんな人よりも大嫌いです」
「ルルーシュは、お前がスザクのことを好きだと勘違いしているようだが?」
「お兄様がそう思うよう仕向けたのは私ですから、当然です。お兄様は、私には盲目的な方ですから、簡単に騙されてくれましたよ?だからお兄様はずっと、私とスザクさんが一緒になればいいと思われていたんです。ふふ、かわいらしいお兄様。スザクさんと私が一緒になるなんて、そんな馬鹿げたこと絶対ありえないのに。だって私もスザクさんも、お兄様のことが他の誰より大好きなんですもの」
 ナナリーは至極楽しそうに笑っている。
「でもスザクさんは、本心がどうであれ、騎士になるということでユフィ義姉様を選んでしまわれた。私とお兄様ではなくて、ユフィ義姉様を選ばれたのです。そしてユフィ義姉様も、お兄様ではなくてスザクさんを選ばれた。行政特区日本の設立なんて馬鹿げたことまで言い出して……ユフィ義姉様は善意でやっているのかもしれませんが、ブリタニア嫌いのお兄様がそんなことに賛成するわけがないのに……これで私以外に、お兄様の特別はいなくなった。私が望んだとおり、お兄様には今、私だけなんです」
「私のことはどうなんだ?」
「C.C.さんはいいんです」
 意地の悪い問いをするC.C.に、ナナリーは余裕の笑みで返した。
「お兄様がC.C.さんを側に置いているのは、それが必要なことだからなのでしょう?貴方がこのクラブハウスに初めて姿を見せたとき、お兄様は明らかに貴方のことを疎んじておられた。それでも貴方が追い出されずこの場所にいるということは、貴方がこの場所を離れるということがお兄様にとって何か不都合であるか、あるいは貴方がこの場所にいることがお兄様のプラスになるということ……違いますか?」
 C.C.は大きなため息を吐いた。
「さあな」
「否定しないのは、肯定しているのと同じことなんですよ」
「……ルルーシュのことを歪んでいると思っていたが……お前はそれ以上だな」
「まあ、光栄です」
「本当はとうに目も見えるし、足もちゃんと動くようになっているのに……これからも、あいつを縛るためだけに偽りを演じ続けるのか?」
「だってきっと、私の目が見えて足も動いているのだと知られれば、お兄様は私のことを置いていってしまうかもしれないでしょう?だから私は、この嘘を吐き続けます。それがお兄様と一緒にいるために、それが必要なことならば、私はどんなことだってします」
 ルルーシュのそれと良く似た紫色の瞳を開いて、ナナリーはC.C.の姿を確かに瞳の中に映しながら、にっこりと微笑んだ。
「私がルルーシュに、本当のことを教えるとは思わないのか?」
「C.C.さんの言うことと私の言うこと、お兄様はどちらを信じると思いますか?」
 明るい顔で答えるナナリーを見て、C.C.は黙り込んだ。それが答えだった。

「……それでもルルーシュはゼロだから、あいつ本人がどう思っていようと状況次第では、いつかお前は置き去りにされてしまうかもしれないぞ?」
「そのときは、この目でお兄様の姿を探して、この足でそこまで走っていくだけのことです。そして、置いていくなんてひどいとお兄様を叱りつけてあげるんです」
 そう言って笑うナナリーの姿は、途方もなくいびつで、けれど途方もなく強い生き物に見えた。


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