聖者の条件

 紅蓮弐式の操縦席に乗り込んだカレンは、ラクシャータの指示に従って、愛機の起動実験を行っていた。一度壊れてしまった紅蓮弐式が、まともに動くかを確かめるために。
 式根島で、ゼロを助けたいという一心から、カレンは紅蓮弐式の中を飛び出した。
 そのとき、どうして自分が助かったのかは、覚えていない。全く。
 事実カレンは、あのとき、自分は死ぬのだと思った。
 戦いに身を任せたときから、死ぬ覚悟はあった。けれどそれは、自分が死ぬ覚悟なら、だ。
 ゼロを、唯一のあの人を失う覚悟なんて、カレンは欠片も持ち合わせていなかった。
 ゼロがいない世界なんて、カレンにはもう、想像できない。彼がいない頃に生きていた自分が、カレンにはもう思い出せなかった。どうやって日本を取り戻そうとしていたのか、どうやって一日を過ごしていたのか、どうやって息をしていたのかさえ。
 今では、ゼロはカレンの全てになっていた。
 だから、素性が発覚することもいとわず、大声で叫んだ。
 偽りの平和の中に身を潜める、ブリタニア人としての自分の名を、立場を。
 それを明らかにすることで、スザクの気を逸らすことができるのならば、ゼロが助かる可能性がほんの少しでも上がるのならば、躊躇することなんて少しもなかった。たとえ自分の身がどうなろうと、ゼロを守ることができるのなら、カレンはそれで良かったのだ。
 必死になって、ゼロを助けようと走っていたところで、カレンの意識は一度途切れて。次に目が覚めたとき、カレンは見知らぬ島にいた。
 後でゼロに聞いたところ、そこはどうやら神根島という島だった。
 ゼロもまた、どうして自分がそんな島にいたのか分からないと言っていたから、カレンがその理由を知らなくても当然だ。
 カレンはゼロのことを、心から尊敬していた。むしろ、崇めていると言った方が正しいかもしれない。
 ゼロはカレンの希望だ。全身全霊で守るに足る、すばらしい人だと思っている。
 誰に何と言われようと、ゼロに対する感情が変わることはない。
(そう思っていた……なのに!)
 クラスメイトでもあり憎むべき敵の尖兵でもある枢木スザクが、神根島で発した言葉に揺らぐ自分が許せなくて、カレンは悔しげに顔を歪める。
 その心の動揺が、紅蓮弐式の起動実験にも悪影響をもたらしているのか、ラクシャータからのお叱りが入った。
「こら!ちゃんと集中しなさい!」
「は、はいっ……!」
 その声に、カレンは正気に戻り、思わず姿勢を正して返事をする。自分が悪いのだと分かっているから、自然と返事も謙虚なものとなる。
 何せ、紅蓮弐式が壊れてしまったのは、カレンが式根島で、大切な機体を放り出してしまったことが原因のため。しかも、戦った結果で壊れたわけではないので、余計に申し訳なかった。
 カレンが放り出した紅蓮弐式は、空飛ぶ戦艦から放たれた攻撃をまともに食らってしまったらしく、損傷はひどかった。
 それでも黒の騎士団には、紅蓮弐式の製作者であるラクシャータがいたから、元通りに復元することは、簡単とは言わずとも、大した労をかけることもなく終わったらしい。
 修復に必要な部品などは、キョウトからの支援物資の中に含まれていた。そして、それでも足りないものも、そうと望みさえすれば、どこからかは知らないが、ゼロが全てを手に入れてくれた。
 だから、後はこの起動実験が無事に終われば、紅蓮弐式の修理は終わる。
 ちゃんと精神を統一して、集中しなければいけない。そうと分かってはいるけれど、カレンはどうしても、集中し切ることができなかった。
 どうしても、あの島でスザクに言われた言葉が、脳裏に甦るのだ。

『彼のやり方では……未来はないよ』

(……うるさい)
 スザクに、何が分かると言うのだろうか。
 ブリタニアに腰を折って、早々に日本人であることをやめて、皇女殿下の騎士なんてものにまでなって――ゼロが差し伸べた手を何度も振り払った彼なんかに、ゼロの何が分かるというのだろう。
 カレンもゼロも、未来のために戦っている。
 それなのにスザクは、ゼロが進む先に、未来など無いのだと断言する。
 カレンは、ゼロのことを信じているけれど、面と向かってゼロのことを否定されると、それでも心は揺れた。目的も何も果たせないまま、未来にたどり着けないで終わってしまうのは、怖い。
 スザクの言葉は、カレンのそんな怯えを的確に突いた。カレンはゼロのことを信じていたけれど、他人を妄信できるほど子供ではなかったし、迷わずにいられるほど大人でもなかったのだ。

『でもね、僕は知っているんだ……間違ったやり方で得た結果が、何を残すか。行き場のない虚しさと、後悔だけだって』

(うるさいっ!……間違ってる?間違ってるなんてそんなこと、いったい誰が決めるの?間違って後悔したのは、自分なんじゃない!昔の自分が間違ったからって、私たちまで間違ってるって決め付けるのはやめなさいよ!あんたの価値観を押し付けないで!あんたのそれは、ただの偽善じゃない……!私は、私は、ゼロを信じてる!あの人は間違ってなんかない!!)
 首を横に振って、スザクの言葉を脳内から追い出そうとしていると、再びラクシャータからお叱りが飛んでくる。
「カレン、集中!」
「あ……はいっ!」
 正気づいたカレンはすかさず返事をするが、結局その日の起動実験の結果は最悪だった。



 いつまで経っても調子が上がらないことを理由に、ラクシャータによって紅蓮弐式を追い出されたカレンは、パイロットスーツのまま、とぼとぼと通路を歩いていた。
 確かに、起動実験で良い結果が出なかったのは、カレンの不調のためだ。だから、追い出されても文句は言えない。
「はあ……」
 カレンは大きくため息を吐いて、悔しげに眉をしかめる。
(こんなのじゃダメだ……私には、これしかないのに……)
 情報を手に入れることもできない。どこかに伝手があるわけでもない。特別頭が回るわけでもない。運動能力は良いが、それでも肉体戦になれば、訓練した軍人の男にかなわないことは、神根島でスザクに投げ飛ばされたことで、嫌というほど痛感した。
 カレンにできることは、ナイトメアに乗って、戦うことだけだ。
 それなのに今は、スザクのあんな言葉に惑わされて、満足に紅蓮弐式を乗りこなすこともできない。それも先ほどやっていたのは、実際の戦闘でも何でもない、単なる起動実験だったというのに。
 ゼロは、カレンの腕を信頼して、紅蓮弐式を任せてくれた。ゼロの親衛隊とも言える、零番隊隊長にまで任命してくれた。
 カレンを信頼してくれている彼のことを、失望させるような真似をしたくなかった。
(あんな人の言うことなんて、気にしなくて良い。私は、ゼロを信じて進めば良いの……!)
 そう自分に言い聞かせて、両手で自分の頬を叩く。予想以上に大きな音が響いたが、カレンは気にしなかった。
 だが、他に気にする人間がいた。
「……大きな音だな。痛くないのか?」
「ゼロ!」
 いつの間にか、背後から近づいていたゼロに声をかけられて、カレンは慌てて振り向いた。そこには、いつもと同じ仮面をかぶり、黒いマントを羽織ったゼロの姿があった。
 カレンは慌てて姿勢を正した。
 まだパイロットスーツから服を着替えていなかったから、汗の臭いが気になったが、逃げ出すわけにもいかないのだから、どうしようもない。
 仮面をかぶっているゼロには、汗の臭いなんて届かないとは思うが、気になるものは気になる。乙女心は繊細なのだ。
 居心地悪そうにしているカレンに、ゼロは気付いているのかいないのか、普段通りの口調で話し出す。
「あまり、調子が良くなかったようだな、カレン」
「あ……その……」
 先ほどの、起動実験時の醜態を見られていたのだ。
 そう思うと、恥ずかしくて、情けなくて、涙が出そうになる。
「……すみません」
 言い訳なんて見苦しい真似はしたくなくて、うつむいて唇を噛み締め、ただ謝罪の言葉を吐く。
 ゼロは、そんなカレンを見て、仮面の下で苦笑した。
「謝ることはない。騎士団の誰よりも、君は良くやってくれている」
「っ……ありがとうございます……!」
 心酔するゼロからの、思ってもみなかった言葉に、カレンは頬を紅潮させた。
(ゼロが褒めてくれた……どうしようどうしようどうしよう!!すごくうれしい!)
 落ち込みから一気に抜け出して、瞳を輝かせているカレンに向けて、ゼロは言葉を続ける。
「君は、騎士団にとっても私にとっても、無くてはならない人物だ。……だから聞きたい。何をそんなに悩んでいる?」
「わ、私……」
 カレンは口ごもり、再び暗い面持ちになってうつむく。
 ゼロはせかすことなく、ただ黙って、カレンが口を開くのを待っていてくれる。
 しばらくして、カレンは顔を伏せたまま、拳を握り締めて口を開いた。
「……神根島で、枢木スザクに色々……言われたんです。間違ってるとか、後悔するとか……私は全然、間違ってるなんて思ってないけど、でも、それでも……人に真っ向から否定されると、怖く、なって……こんなんじゃダメだって、分かってます!でも……!」
 カレンは途中で、何を言っているのか自分でも分からなくなってしまった。
「カレン」
 一人でパニックにおちいっていると、冷静な声でゼロに名前を呼ばれる。
 すると、不思議なことに、まるでつき物が落ちたようにあっさりと気分が落ち着いた。
 のろのろと目を上げて、ゼロのことを見上げると、ゼロは泰然とした様子でたたずんでいる。その様子は、ひどく頼もしく思えた。
「仮定の話をしよう。例えば……そうだな、君の大切な人物――君の母が海で溺れていたとしよう。君は彼女のことを、助けるだろう?」
「もちろん」
 当たり前のことを問われて、カレンは不思議に思いながらも、首を縦に振って答えた。
 ゼロはそれに軽く頷いて、さらに話を続ける。
「では、溺れているのが君の母と私の二人で……二人のうち、たった一人しか助けられないとしたら、君はどちらを選ぶ?」
「っ……そんなの……!」
 残酷な質問に、カレンは息を呑んだ。
「そんなの選べません!」
 カレンは泣きそうになって、拳を強く握り締めた。爪が手のひらに突き刺さって、痛い。
「私は、二人とも助けたい……!」
「一人しか助けられないと言っただろう?」
「でもっ、それでも……!」
 呆れたようなゼロの声に、カレンは本気で泣きたくなった。
 どうしてゼロが、こんな意地悪な質問をするのか分からない。
 カレンの眦から、涙があふれそうになったところで、ゼロは再び口を開いた。
「現実には、選択肢は二人のうちどちらを助けるかという、二つしかない。けれど君は、二人とも助けたいと思う。それは、単なる理想論だ。分かるな?」
 迷子になった幼子のような仕草で、カレンは無言で小さく頷いた。
 それを見て、ゼロは話を続ける。
「枢木スザクが言っていることも、それと同じだ」
「……え?」
「彼は、私のやり方が間違っていると言う。……確かに、どんな理由を付けようと、私たちが人殺しであることは事実だ。私たちが起こした行動の結果、犠牲になった民間人がいるし、これからも犠牲になる人間は、大勢いるだろう。……それはカレン、君も分かっているな?」
「……はい」
 父親を失ったシャーリーの嘆きを思い出して、カレンは眉をしかめながら頷いた。
 明るくて、優しくて、何の罪も無い少女。その少女から父親を奪ったのは、カレンたちだ。罪深い行いを、カレンたちはした。
「けれど、そこで心をくじいて立ち止まっていては、何にもならない。たとえ汚濁にまみれようと、侮蔑を浴びせられようと、理解などされることなど一生なくとも、この手を血で濡らそうと……守りたいものがあるのなら、作りたい未来があるのなら、立ち止まってはいけない。世界は、美しいものだけで構成されているのではないのだから――本当に、何かを変えようと思うのならば、綺麗事だけで済まされるようなものなど、何一つないのだ」
「ゼロ……」
「枢木の言っていることは、所詮理想論に過ぎない。……溺れている二人の人間のうち、どちらか一人しか助けられないのに、二人とも助けようとしたら、結局二人とも助けられない。現実が理想通りになることは、ありえない。現実は時に、ひどく残酷なものだからだ」
「そう、ですね……」
「枢木は、理想論を選びたがっている。そして、我々は残酷な現実を選んだ。おキレイな理想論を目の前に突きつけられれば、自分が選んだ道が嫌になるのも仕方がない」
 仮面に隠れて表情を知ることはできないけれど、ゼロの声はとても優しく耳に響いた。
 そこでカレンは、ようやく気付いた。
(もしかして、これって……慰めてくれてる、の?)
 カレンの悩みと全く関係ないところまで話が飛んでしまったため、非常に分かりづらかったが、どうやらゼロなりに気をつかってくれたらしい。
 だが、慰めるときにまで、小難しいことを理路整然と言い出すあたり、とてもゼロらしい。おかげで、慰められている気が全くしない。
 そう思うと、何だかおかしくなってきて、カレンはクスクスと笑い始めた。
 突然笑い始めたカレンを、怪訝そうに見ているゼロに向かって、カレンは笑顔で言った。
「ありがとうございます、ゼロ」
「……いや」
「あんな人の言うことなんて、もう気にしません」
 悩みを吹っ切ったように、晴れやかに笑うカレンを見て、ゼロは不意にぽつりと呟いた。
「……人が、理想論だけを吐いて生きていける条件を、教えてやろうか?カレン」
「ゼロ?」
「その人間が、他人のことなんて本当は、少しも気にしていないからだ。綺麗な部分しか見ようとしない、綺麗なところでしか生きようとしなければ、確かに綺麗なものだけに囲まれて生きていけるだろう。だがそれは、他人に汚いものを押し付けているのと同じことだ。……本当に優しい人間なら、そんなこと、できるわけがないからな」
 スザクを批判するその言葉は、普通なら厳しく聞こえるはずなのに、何故かとても寂しくて悲しいものに聞こえた。
(どうしてそんな声をするの、ゼロ……?)


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