ならば、貴方の幸せは

 まだ、ほんの幼い頃。
 並んで草の上に転がって、夜空を眺めた記憶がある。ルルーシュとナナリーと、自分の三人で、三角形を作るように寝転がって。その側には、マリアンヌ皇妃がいた。
 目に映ったのは、暗い中で点々と星の明滅する、果てなどないように広がっている美しい空だった。
 その頃はまだ、何も知らない子供のままでいることが許された。幸せで、争いも何も知らない、綺麗な世界だけを見ていることを許された。
 汚いところなどなかったその記憶が、果たして本当に幸せというものだったのかどうか。世界は決して、美しいものだけで構成されているわけではないのだから、美しいものしかなかったそこに、本当の幸福はなかったのかもしれない。それは、ユーフェミアにはまだ分からない。もしかしたら、一生分からないかもしれない。
 けれど、今ではもう取り戻すことのできないあの時間は、ユーフェミアにとってかけがえのない、大切なものだった。言葉では、言い表すことのできないほど、とても大切な。
 一つ年上の兄が、側にいたあの光景は、他の何よりも大切な思い出だった。幸せかそうでないか、そんなつまらないことよりも、兄がいたあの光景が、ただ大切だった。

 ルルーシュという名のその兄は、子供ながらに、ひどく大人びた表情を見せる美しい人だった。
 皇族にふさわしい気品と落ち着きを、生まれながらに持ち合わせていて、気高く合ってなお、優しさを忘れることはない人だった。母親と妹を、何よりも大切にしていた、本当に優しい人だった。
 頭脳の優秀さもまた、子供の頃から飛びぬけていて、チェスでルルーシュにかなう人間など、ユーフェミアは見たことがない。
 けれど大人たちは、母親が庶出であるというだけで、ルルーシュを軽く扱った。
 それが、ユーフェミアには許せなかった。
 一つ年上の美しい兄のことが、ユーフェミアは大好きだったからだ。
 義理の妹のユーフェミアにも、彼は優しかった。ルルーシュの優しさに、コーネリアのような、息の詰まるほどの過保護さはなかった。つまらない話でも、ちゃんと聞いてくれて、ユーフェミアの意見を尊重してくれた。
 ルルーシュ以外に、そんな人はいなかった。所詮は子供の発言に過ぎないのだと、皆がユーフェミアの言葉を、笑って聞き流した。ルルーシュ以外誰も、ユーフェミアの言葉をちゃんと聞いてくれた人なんて、いなかった。
 だから、ユーフェミアはルルーシュが好きだった。ルルーシュが側にいれば、お飾りではない、本当の皇女であることができるような気がした。
 けれど、幸せな日々は、簡単に崩れさった。
 マリアンヌ皇妃が殺されて、ルルーシュとナナリーは日本に送られ、その後起こった戦争とともに、行方が知れなくなったと聞いた。
 あの日のように、一緒に夜空を眺めることは、もう二度とかなわぬこととなってしまったのだと、そう思った。



 けれど今、横を見れば、記憶にあるよりもずっと成長したルルーシュの姿がある。共に在れるこの時間は、他の姿が見えないこの島でだけの、ほんの一時の奇跡だ。
 ユーフェミアにマントを貸して、やわらかい砂地の上にユーフェミアを寝かせた彼は、硬い岩の上に座り込んで、ユーフェミアが眠るのを待っている。寝ずの番でもするつもりなのかもしれない。
 優しいのは、相変わらずなのだと思った。たとえ彼が、ゼロという名のテロリストに身を落としていようとも。
 ルルーシュの美しい横顔から目を逸らして、ユーフェミアは空を見上げた。
 昔と同じ、美しい夜空が、視線の先には広がっている。
 それを見上げたまま、ユーフェミアはそっと口を開いた。
「……ねえ、ルルーシュ」
「何か?」
「貴方はどうして……どうして、ゼロになろうと思ったのですか?」
「今更、何だ?そんなこと……」
 いぶかるようなルルーシュの声が、耳を打つ。
 ルルーシュの言いたいことは分かる。
 ホテルジャックのとき。ゼロの姿で彼は、ブリタニア皇帝に対する憎しみをあらわにした。
 そして、ゼロ=ルルーシュであると分かった今ならば、ルルーシュがゼロとなった理由など、聞かずとも分かるはずだとルルーシュは言いたいのだろう。
 確かに、ルルーシュがゼロとなった理由の一端に、ブリタニア皇帝に対する憎しみがあることは、間違いないだろう。
 けれど、それだけであるというのならば。
 ルルーシュが本当に、憎しみだけにとらわれて、テロリストになったというのならば。
 どうして今、ユーフェミアは生かされているというのだろうか。
 下に敷いた、ゼロのマントに手をついて、ユーフェミアは起き上がる。そして、視線をまっすぐルルーシュへと向けて、問いかけた。
「お父様の血を引く私が、憎いのでしょう?なら、どうして殺さないのですか?どうして……こんなに優しくするのですか?貴方が、憎しみだけにとらわれてしまったと言うのならば、こんなふうに優しくする理由なんて、ないはずです。私は、貴方の義妹であるよりも先に、ブリタニアの皇女なのですから」
「でも、ユフィ。君は、ナナリーに優しかっただろう?」
 至極当然といった顔をして、ルルーシュは当たり前のことを言うような声で、言い切った。
 ユーフェミアは愕然として、目を見開いた。
「……それだけ、ですか……?」
 声が震えているのが、自分でも分かる。
 ナナリーに優しかったというだけで、ユーフェミアは命をつないだと、ルルーシュはそう言いたいのだろうか。ユーフェミアを殺さなかった理由に、ルルーシュの感情は一欠片も入っていないのだろうか。
 あまりの悲しさと切なさに、泣きそうになりながら、ユーフェミアは言葉をつむぐ。
「では……ルルーシュ、ゼロになろうと思ったのは……ナナリーのために……?」
 泣きそうなユーフェミアとは裏腹に、ルルーシュはとても美しく微笑んで、口を開く。
「……だって、世界はナナリーに、優しくなかった。世界を壊そうと思うのに、それ以上の理由がいるのか?ナナリーが幸せに暮らしていける世界を俺は……きっと、作ってみせる」
 美しすぎるその笑みは、笑っているはずなのに何故か、泣いているようにも見えた。
(ナナリーのために……)
 幸せに生きてきたユーフェミアには、決して分かることのできない苦しみを抱えて、生きてきたルルーシュとナナリーの兄妹二人。彼らの絆が、昔よりもさらに深いものとなっているのは、当然と言えるだろう。
 けれど、とユーフェミアは思う。
(……そのためだけに、貴方がゼロになろうと決めたと言うのなら、ルルーシュ……)
 ナナリーのため、とルルーシュは言い切る。
 ナナリーの幸福だけを、ルルーシュは願っている。
 それは全て、妹であるナナリーのためであって、ルルーシュ自身のためではない。
(……貴方の幸せは、果たしてどこにあるのでしょうか……?)
 今のルルーシュは、ナナリーのために生きている。ナナリーを幸せにするために、それだけを命題にして。
 自分の幸せなんて、少しも考えてはいない。自分が手を汚すことも、人を殺すことも、それがナナリーを幸せにするためならば、少しもためらわない。ためらわないけれど、ルルーシュは優しいから、きっとそのたびに傷ついている。
 そう思うと、ひどく悲しかった。
 知らず、涙が頬を伝う。ユーフェミアは手を伸ばして、そっとルルーシュの頬に触れた。
「私も……幸せを作りたい。貴方が……貴方と、貴方の大切なものが、けっして傷つくことのない世界を、私も作りたいです。だから、ルルーシュ……どうか、悲しまないで……」
「……?何を言うんだ?泣いているのは、君のくせに……」
 不思議そうな顔をしたルルーシュが、ユーフェミアの涙を拭う。
 自らが傷ついていることすら、気付いていない、不器用なルルーシュ。
 気高くて優しい、美しいこの兄が、ユーフェミアは昔から大好きだった。昔はそれを、家族に対する親愛の情だと思っていた。
 けれど、今なら分かる。
 この感情は、恋情だ。そうでなければ、この切なさも悲しさも愛おしさも、説明がつかない。
 涙を流さず泣いている、不器用なルルーシュを見上げて、ユーフェミアは泣きながら笑った。
(ルルーシュ、私は……)
 ユーフェミアはこれまで、姉のコーネリアに守られて生きてきた。温室育ちと呼ばれても、お飾りの皇女と呼ばれても、仕方ないぐらい、過保護に守られて。
 けれど、守りたいものができた今、お飾りの座に甘んじている気はない。
 女は、守りたいもののために強くなるのだ。ユーフェミアも、絶対に強くなってみせる。
 並居る兄も姉も、お飾りと呼ばれるユーフェミアのことを、皇位継承争いでの敵とはみなしていない。それを利用して、ひ弱なお姫様のままのふりをして、ひっそりと鋭い爪と牙を育ててみせるとユーフェミアは決意した。

(……貴方の幸せのために、私はいつか――)
 ――ブリタニアの、至尊の座を手に入れる。


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