許せない。
未来線で見たときにもそう思った。けれど本物を目にしたときの憤りは、その比ではなかった。いや、怒りなんてものではない。抱いたのは純然たる殺意だった。
殺してやる。
そう思ったことに、何ら罪悪感を抱くことはなかった。この男は姉を傷つけた。害した。血を流させた。姉の頭に銃口を突きつけて、さらなる危害を加えようとしている。
ナナリーにとって、姉は世界中のどんなものよりも大切で尊いものだ。いや、おそらくはその言葉でさえ正しくない。ナナリーにとって、ルルーシュは世界そのものだ。姉が存在するからこそ、このおぞましくも醜い世界にかろうじて価値を認められる。姉がいるからこそ世界は明るく色づく。姉だけがナナリーを絶望から救い出してくれる。
その思いはもはや、家族に向ける愛というよりも信仰に近いかもしれない。
そして、だから許せない。ナナリーにとって神にも等しい存在を傷つけ、あまつさえその頭に銃を突きつけている男が。殺したいと望むことは罪悪ではなく必然であり、悪事ではなく正義だった。
「聞こえなかったのですか!?今すぐお姉さまを放しなさい!」
「やだやだ、怖いなあ。ねえルル?」
瓦礫の上に座っている男はナナリーの言葉を拒絶したばかりか、神経を逆なでするような笑みを浮かべて、すぐ隣で意識を失っているルルーシュに向かって親しげに話しかける。
怒りのあまり、目の前が真っ赤に染まった。姉を傷つけておきながら、どうしてルルなどと親しげに呼べるのか。お前なんかが軽々しく姉を愛称で呼ぶなと、ふざけるなと叫びたかった。けれど感情のままにそれを叫んでは、状況が悪くなってしまうかもしれない。それを避けたい一心で、ナナリーは必死になって胸の奥底からふつふつと湧き上がってくる怒りを押さえつける。
「……今なら、お姉さまに手を出したことは見逃します。お姉さまを置いて立ち去りなさい」
「お姉さまに手を出したことは見逃しますぅ?大好きなオネエサマに手を出した僕を許せない、殺してやるって思ってるくせに、よく言ったものだね。さすが!泥棒猫は面の皮も厚いんだねぇ」
ナナリーは内心を正確に言い当てられたことに一瞬驚いて、すぐに苦虫をつぶしたような顔になる。心を読む能力――それはこの男が、C.C.が予想したとおりの人間――マオという名前のギアス能力者だということを証明していた。
「C.C.!ああ、やっぱり僕のことを忘れてなんかいなかったんだね!分かっていたよ、僕の前からいなくなったのは、僕に追ってきて欲しかったからなんだよね!あんな電話だけで僕のことが分かるぐらい、いつも僕のことを考えていたんだね!」
マオはナナリーの思考を呼んだのか、恍惚とした表情で、ここにはいないC.C.に向かって語りかける。その姿は明らかに異常だった。どうやら彼の狙いがC.C.だというのは本当らしい。
遠い目をしてぶつぶつ言っているマオの意識がここにないことは明白だった。それを好機と見て、ナナリーは彼に飛びかかろうとした。
しかしナナリーのかかとがコンクリートを蹴るよりも早く、マオが正気を取り戻して叫んだ。
「動くな!」
「っ……」
「大好きなオネエサマを殺されたくなかったら、そこから動くなよ」
ナナリーは息を呑んだ後、奥歯を食いしばった。C.C.の話を聞いたときに立てた予想通り、非常に厄介な相手だ。隙を見て姉を助けようとしても、ナナリーがそうしようと考えた瞬間、隙は隙ではなくなる。先ほどのように甘言を弄しても意味はない。脅迫も同様だ。ギアスも同じく。心を読める相手には通じない。
捕らわれている姉を前にしているというのに、ナナリーには何もできない。自分が不甲斐なくてたまらなかった。
「ネモって言ったっけ?君もだ」
いつの間にかナナリーの斜め後ろに立っていたネモに向けて、マオが言う。
ネモは舌打ちをして、マオを背後から襲わせようとして地面から出しかけていたマークネモを引っ込めた。どうやらナナリーが気づかないうちに、彼女は彼女でルルーシュを助けようとしていたらしい。
ナナリーは驚いたが、同時に納得もした。ネモはナナリーの感情を食べて、もう一人のナナリーになった。ルルーシュを大事に思う心がないとどうして言えよう。
「どうして分かったかって?聞こえたからに決まってるだろ?」
前後の脈絡なく、マオはネモに話しかける。
脈絡がないように聞こえるのは、マオがネモの心の声を読んでいるからだろう。話しかけているくせにネモがいる場所とは微妙に外れたところを見ているのはきっと、心の声が聞こえていても姿は見えていないからだ。C.C.は、今のネモは自分とナナリーにしか見えないと言っていたが、それはギアス能力者が相手でもそうらしい。
「聞こえた?魔王たる私の声がか!?」
「うるさいなあ。C.C.のコピーのくせに、何でこんなに君はうるさいんだ」
「黙れ!私はもう、ただのコピーなんかじゃ……ただの泥人形なんかじゃない!」
「ああ、君、失敗作なんだ。能力どころか形さえまともにコピーすることができなかった劣化品。ナナリーに出会うまでは感情すら持たなかった泥人形だ」
「黙れ!」
「感情を得たことで君は自分が偉くなったみたいに感じてるけど、ナナリーの怒りに振り回されてるだけだってC.C.には言われたんだって?さっすがC.C.、うまいこと言うなあ。ルルーシュのことを助けたいと思ってるみたいだけど、それはナナリーの感情で君のものじゃあないんだよね」
「違う、お姉さまを助けたいと思っているのは私のっ」
「違わない。君が自分の心だと思っているのは、ナナリーの心だ。君の心じゃない。君には今も、心なんてないんだ。哀れだね。惨めだね。ひどいよねぇ……君は結局、泥人形だったころと何一つ変わっていないんだ」
「黙れ、黙れ黙れ黙れっ!!」
愉快そうに笑うマオの声から逃れるように、ネモは耳を塞いでしゃがみこむ。
「違う、私、私はもう、泥人形なんかじゃ……」
「ネモ……」
ナナリーは複雑な顔をして、異様な形相でぶつぶつとつぶやいているネモを見下ろした。彼女を哀れだと思った。同時に、マオの言うとおりだとも。
あれだけ言われてネモがマオを攻撃しようとしなかったのは、そうしようとした瞬間にルルーシュが撃たれることが分かっていたからだ。そしてそのことが、マオの言葉が事実だということを示している。マオはナナリーの心の闇を共有することで感情を得たと言っていたが、それが彼女独自のものであるのなら、どうして会ったこともないルルーシュにそんな気を使う必要があるというのだ。答えは簡単だ。ネモは感情を得たわけではなくて、ナナリーの感情を自分のものと勘違いしていただけだからだ。
「この状況でそいつを哀れむなんて、余裕だねぇ」
声をかけられたナナリーは肩を揺らして、すぐマオに視線を戻した。
「僕が思ってたほど、君はルルーシュのことが大切じゃないのかな?」
マオの言葉はどうしようもなく癇に障った。ナナリーはそれを無理やり押さえつけて、声が震えないように気をつけながら問いかけを発した。
「……どうすれば、お姉さまを解放してくれますか?」
「どうすれば、ねぇ。さてどうしようかなあ。ルルーシュが役に立たなかったせいで、予定が狂っちゃったしなあ……」
「……?」
ナナリーは眉根を寄せた。役に立たなかったとはいったいどういうことなのだろう。ルルーシュはこうして今、人質として立派にというのもなんだが十分な役割を果たしているというのに。
そんな疑問など心を読んで分かっているだろうに、マオはその答えをよこすどころか何の反応も見せず、相変わらず神経を逆なでする笑みを浮かべて問いかけてくる。
「そもそもさぁ、君がルルーシュを助ける義理なんてあるの?」
「義理とかそんなのは関係ありません。お姉さまは私のすべてです。助けるのは当然です」
「そのお姉さまは、君のことを助けてくれなかったのに?」
「そんなことはありません」
ナナリーはぐっと詰まりかけたが、すんでのところで平静を装った。
けれど心を読める人間にとってみれば、そんな虚勢に意味はない。マオはにんまりと、それまで以上の笑みを浮かべた。
「へえ、そうか、そうなんだ」
その歪んだ笑みと心を見透かす両の瞳に、ナナリーはぞっと寒気を覚えた。弱気になったらネモの二の舞だと自分に言い聞かせて、心を落ち着けようとする。
「お姉さまはいつだって私のことを助けてくれました。お母さまが殺されて日本に送られることが決まったときには、他の方々とは違って会いに来て、抱きしめて慰めてくださいました。日本侵略のときだって、アッシュフォード家に私をさが」
「頼んだだけで、自分では捜そうとしなかった」
やめて。
「あの当時まだたった九歳だったお姉さまに、アッシュフォード家に頼む以外何かできたわけがありません。今だってお手紙で、私のことをミレイさんに」
「しょせん人任せだろ?子どものころなら仕方なくても、成長した今は自分で捜すこともできるんじゃないのかなぁ?」
言わないで。
「……私が生きていると信じられているお姉さまは、考えられたはずです。生きているのならば、なぜ皇室に戻ろうとしないのか。それは私が戻りたくないと思っているから……おそらくそう結論付けられたのでしょう。自分が動くことで私の望みを壊すかもしれない。その可能性を考えてしまえば、どうしてお姉さまに動くことができるでしょう。私とお姉さまの関係を考えれば、お姉さまの選択は当たり前です。お姉さまが動けば、私がブリタニアに見つかる確立は格段に跳ね上がる」
「いい子のお返事だ。でも本当にそう?ルルーシュが自分で動かないのは君のためじゃなくて、本当はもう君のことを諦めているから、なんじゃあないの?」
違う。
「そんなことありません。だってミレイさんへのお手紙に、」
「そんなの何とでも書けるさ。ルルーシュの頭の良さなら、いくらでも方法はあったはずだ。ブリタニアに見つからず、君を捜す方法がね。それをしてないってことは、ルルーシュはやっぱり君が生きてるなんて思ってないんだよ」
違う。
「違わない。だから君も隠さなくていいんだよぉ?……いつまでも迎えに来てくれないルルーシュを、本当は恨んでること」
「違う!私はお姉さまを恨んでなんかないっ!」
ナナリーは思い切りかぶりを振って叫んだ。最愛の姉を恨んでなんかいない。ブリタニアを、アッシュフォード家を、ミレイを恨みに思っていたとしても、ルルーシュだけはありえない。誰もがナナリーを見捨てた中でたった一人傍にいて抱きしめてくれた姉を恨むなんて、そんなことあっていいはずがない。
「嘘は駄目だよ、嘘は。僕にはお見通しさ」
「違う、私はお姉さまが大切なんです!恨んでなんかいません!」
その証拠を探そうとして、ナナリーはふと気づいた。
「そうだ、ネモ……!私がお姉さまを恨んでいると言うのなら、ネモがお姉さまを救おうとするはずがありません!」
「そいつは僕のC.C.じゃなくて、ただの泥人形なんだ。欠陥品なんだ。まがい物なんだよねぇ。深層意識に封じ込めた恨みまで読み取れなくても無理はないよ……君はルルーシュを恨んでる」
「勝手なことを言わないで!」
「勝手?勝手じゃない、事実だ」
取り乱すナナリーを見て、マオはにやにやと笑う。
「周りの皆から見捨てられた中で、ルルーシュはただ一人優しくしてくれたね。泣いていれば、傍にいて抱きしめてくれたよね。日本になんか行きたくないって駄々をこねれば、迎えに行くって約束までしてくれたよねぇ?そんな人を恨むのってどんな気分?」
「もうやめて……」
これ以上聞きたくなんてなかった。ナナリーは唇を噛み締めて、こぶしを強く握り締めた。
姉のことを恨んでなんかいない。そのはずなのに、マオの言葉に動揺してしまうのはなぜなのか。心を揺らすことこそ、マオの言葉が真実である証なのではないのか。
そんなことがあっていいはずがない。あの優しい人を恨むなんて、そんなことあっていいはずがない、なのに。
「そう、あっていいはずがない……君は罰を受けるべきだよ」
「……罰……?」
「そうさ、君が」
マオが何か言いかけたとき、不意に銃声が響いた。直後、マオの頬を銃弾がかすめて赤い線ができる。
「誰だ!?僕が気づかないなんて……」
マオがきょろきょろと周囲を見渡す中、地下鉄構内の暗がりから姿を現したのは、さっき置いてきぼりにしたC.C.だった。
「C.C.!ああ、やっと会えた、本当の君に!」
マオはそう言って、ヘッドフォンをかなぐり捨てる。
「君はなんて静かなんだ!やっぱり君は最高だよ!」
興奮して状況を忘れているのか、マオは恍惚とした表情でC.C.に向かって両手を伸ばす――そう、ルルーシュの頭に銃を突きつけていた手をも。
それを見逃さず、ナナリーはコンクリートを蹴って走り出す。マオはすぐに気づいて、再びルルーシュに銃を向けようとしたが、遅かった。ナナリーがこれまで動かなかったのは、ルルーシュに銃口が向けられていたからだ。銃口が押し当てられていれば、動くことを悟られた瞬間に引き金を引かれてしまう。けれど少しでも外れてさえいれば、狙いを定めてから撃つまでの間が生まれる。その一瞬があれば、閃光とまで呼ばれた母の運動神経をそのまま受け継いだナナリーには十分だった。
マオの手首を蹴り上げて、銃を上に蹴り飛ばす。それから顎を殴りつけて頭を揺らし、地面に倒れたところ腹を思い切り踏みつけて抵抗を封じる。
「あがっ!!」
「ナナリー!」
とがめるような声でC.C.が名前を呼んでくるが、ナナリーは足にこめた力を弱めようとは思わなかった。蹴り上げた銃がくるくると円を描いて落ちてくる。ナナリーはそのままの体勢でそれをキャッチして、迷うことなく足元のマオに狙いを定めた。
「形勢逆転、ですね」
「お、まえ……僕とC.C.の再会の邪魔をするな!」
「私とお姉さまの再会を汚したあなたがそれを言うのですか?」
「うるさい!」
子どもが癇癪を起こしたように叫んだ後、マオは銃を向けられていることなど忘れたようにうっとりとC.C.を見つめた。
「C.C.、会いたかったよ。君を迎えに来たんだ」
「マオ、前にも言ったがお前とは……」
「そんなのウソウソ。C.C.は僕のこと大好きなんだからさ。C.C.、君だけだ、君だけなんだ、僕が欲しいのは。ナナリーもルルーシュもどうでもいい、君さえ来てくれ、ぐうっ!」
ナナリーは足に力をこめることで、マオの言葉を途中でさえぎった。
「……どうでもいい?どうでもいいと言うのなら、どうしてお姉さまを巻き込んだのですか?どうしてお姉さまを傷つけたのですか?」
ナナリーは底冷えするような声で言って、引き金にかけた指に少しだけ力をこめる。
C.C.が悲鳴を上げた。
「待ってくれ、ナナリー!ちゃんと話せば!」
「僕を殺す?いいや、死ぬべきは僕じゃない。君だ。ルルーシュが巻き込まれたのは君のせい、傷ついたのも君のせいだ。君さえいなければルルーシュがこんな目に遭うことはなかったんだ!それなのに君ときたら、君のせいで傷ついた姉のことを恨んでいる。君はその罰を受けて死ぬべきなんだよ!」
心の中でどれだけ動揺していようと、ナナリーがマオの額に向けた銃をぶれさせることはなかった。マオを自由にすれば、また姉が傷つけられるかもしれない。その可能性がある限り、この男を自由にさせるわけにはいかなかった。
「ははっ、僕を殺しても、お前がルルーシュを恨んでいるという事実は変わらない!お前にとって唯一の救いを、お前自身が貶めたことは変わらな」
ナナリーは引き金を引いた。
銃声と、C.C.の悲痛な声が響く。
眉間に穴を開けて、マオは二度と動かなくなった。
ナナリーは死体から足をどけて、そのすぐ近くで倒れこんでいるルルーシュの側に膝をついた。
「お姉さま……」
手を伸ばして姉に触れようとしたとき、ナナリーはまだ持ったままだった銃に気づいて、弾かれたように銃を手放した。
「あ、私、私は……」
今この手で、ナナリーは人を殺した。シンジュクゲットーではナイトメアを破壊してクロヴィスを殺そうとしたし、河口湖では日本解放戦線のメンバーを殺してナイトメア部隊を壊滅させた。けれどそれはマークネモに乗っていたとき――意識を半ばネモに乗っ取られていたときだ。そのときならば人を殺しても、まだネモのせいだと責任を押し付けることができた。けれど今、ナナリーはこの手でマオに手を下した。
目に映る自分の手は白い。けれどもう、この手は赤い血に濡れている。そんな汚い手で、姉に触れても許されるだろうか。
いや、本当の問題はそんなことではない。さっきマオが言っていた。ナナリーが本当はルルーシュを恨んでいるのだと。唯一の救いを、ナナリー自身が貶めたのだと。それがナナリーの真実だというのなら、こんなにも醜い恩知らずの自分が、姉に触れることなど許されるはずがない。
「おねえ、さま……!」
ずっと会いたかった人が目に前にいる。手を伸ばせば、すぐ触れられる距離にいる。それなのに触れられない。
「何で……どうして……やっと、やっと会えたのに……!」
ようやく会うことができたというのに、どうしてこんな思いをしなければならないのだろう。両の目からとめどなく涙をあふれさせて、ナナリーは嘆いた。
ナナリーがそうしている間、C.C.はナナリーが打ち捨てた死体の側にしゃがみこんで、その顔をずっと見ていた。彼女はマオの開いたままの目を閉じさせて、腹の上で手を組ませる。それから立ち上がると、ナナリーが投げ捨てた銃を拾い上げて懐にしまいこみ、声をかけてくる。
「ナナリー、行くぞ。いつまでもこんなところにいて、マオの死体と一緒にいるところを見つかれば事だ。ルルーシュの手当てもしなければいけないしな」
「……C.C.さんのせいです」
マオさえいなければ、こんな思いをしなくても良かったはずだ。そしてそのマオがやって来たのはC.C.のせいだ。マオが死んでしまった今、八つ当たりの対象はC.C.以外にいなかった。
「C.C.さんがいたから、こんなことになったんです!」
「……そうか」
C.C.はどこか諦めたように、寂しげであるのに同時に安堵したような声音で言う。
ナナリーは自分が何を言ったか気づいて焦った。
「あ……ち、違います!今のはただの八つ当たりで、本気じゃなかったんです!」
「分かっている。人は責任の所在を、自分以外の何かに求めたがる生き物だ。だが……」
C.C.は焦がれるような瞳で、いつの間にか赤く染まっていた空を見上げる。
「……お前との契約も、ここまでだな」
最後の優しさとしてルルーシュはゲットーの外まで運んでやると言ったC.C.に甘えて、ナナリーは姉を任せた。マオと会うまでの自分なら、どれだけ体格的にきつくても他人の手に姉を任せたりはしなかっただろう。けれど触れることさえためらわれる今となっては、彼女の言葉に甘えるほかなかった。
こんなにも醜い自分が、姉に触れることなどできるはずがない。ましてや会おうなどとは考えることさえおこがましい。しかし、ブリタニア人だと一目で分かる姉をゲットーに置いたままにしておくのは危険すぎるからだ。
あまり目立つわけにはいかないので、C.C.にはゲットーを出てすぐの公園まで運んでもらうことにした。
姉を公園のベンチに寝かせてもらっている間に、ナナリーは水場まで行ってハンカチをぬらしてくる。水場から戻ってくると、C.C.はなぜかルルーシュに膝枕をしていた。これも最後の優しさに含まれるのだろうかと少し戸惑いながらも、ナナリーはしゃがみこんで姉の頭にできた傷口を清めた。間近で見ると、姉の白いはずの頬は砂にまみれていくつか擦り傷ができていて、ひどく痛々しい。顔や首についている血と一緒に、頬の砂も拭う。擦り傷というのは、小さくてもかなり痛むものだが、その上にハンカチを押し当てているというのに、姉はうめき声一つ漏らさない。この深すぎる眠りから考えて、何か薬でも使われたのかもしれない。
「……お姉さまが目を覚ますまで、見ていてもらってもいいですか?」
「かまわんが、お前は?会わないのか?」
「……会えるわけがありません」
ナナリーはうつむいて涙をこらえた。
「私みたいな人間が、お姉さまに会っていいわけないんです」
「ルルーシュがお前に会いたがっていても?」
「……それでも、です……お姉さまのこと、お願いします」
ナナリーはすっくと立ち上がって、C.C.に向かって頭を下げた。それから泣きそうな顔で後ろに一歩二歩後退して、未練を断ち切るようにかぶりを振って走り始める。
C.C.は信じられない速さで遠ざかっていく小さな背中を見送って、暗くなって星が見え始めた夜空を見上げた。
「似ているのは身体能力だけ、か。お前の娘も、お前ほどあつかましくなれればよかったのにな……なあ、マリアンヌ」
◇ ◇ ◇
姉を置いてきた公園から離れた無人の倉庫で、ナナリーは一晩を過ごした。
学園には帰れなかった。ナナリーが生きていると知れば、姉は間違いなくアッシュフォード家が自分をたばかっていた可能性を思いつくはずだ。帰ってからルーベンに相談してナナリーがどこかに身を隠すまでの間に、姉がアッシュフォードを訪ねてこないとは限らない。姉はこれまで身を隠してきたナナリーのことを考えて、事を大きくすることはしないだろう。だからもしアッシュフォードを訪ねても、そう何日も滞在することはできないはずだ。姉がブリタニアに帰るまでどこかに身を潜めていて、それから学園に戻ればいい。幸い、財布はポケットに入れておいたので、不自由することはない。財布の中にある現金だけでは心もとないが、カードもあるから問題ない。
アッシュフォード家を離れるという選択肢はなかった。ルーベンの与えてくれる庇護を離れては生きていくことさえ難しい幼い自分を、ナナリーはちゃんと分かっていた。
ナナリーは抱えた膝に顔をうずめた。それからどれだけそうしていただろう。ふと、ポケットの中で何かが震えた。取り出してみると、携帯電話が着信を知らせていた。ミレイからだ。姉が学園を訪ねたのかもしれない。あるいは、一晩帰らなかったことを咲世子に聞いて、心配してかけてきたのかもしれない。どちらにしても出る気はなかった。無視し続けているとバイブ音は止んで留守録機能が動き出す。電話をかけてきただけではなくわざわざメッセージを入れたということは、やはり姉が学園を訪ねてきたから、それを知らせようと思ってかけてきた可能性が高い。
メッセージを聞こうかと思ったけれど、やめた。内容が姉についてのことだったら、どうしていいか分からなくなる。一晩かけてようやく落ち着いてきたところだというのに、またあんな罪悪感にさいなまれたくなかった。
時間を確認すると、もう十時を過ぎている。窓から光が差し込んできているから朝が来たということは分かっていたが、具体的な時間を知ってしまうと、混乱で無茶苦茶になっていた時間間隔が一気に戻ってきて空腹を感じた。思えば、食事をしたのは昨日の昼で、それもマオからの電話で半分も食べていない。
何か買いに行こう。そう決めて立ち上がる。確かここに来るまでにコンビニがあったはずだ。割と近い場所にあったから、気を張っていれば誰かに見つかるということもないだろう。この時間なら、たいていの店は営業している。ついでに服と、変装道具として帽子と伊達メガネでも買うことを決めて、ナナリーは倉庫の外に出た。
歩いていくと、コンビニは五分もしないところにあった。そこで飲み物とパンを買って、それから服を買いに行く。試着した服をそのまま着ていくことを店員に伝えて、会計を済ませて店を出る。帽子も同じ店で買ったので、あとは伊達メガネだけだ。
帽子を深くかぶって街中を歩いていると、五十メートル以上は離れた建物に設置された大型モニターに映し出されるニュースが、自然と目に入ってくる。
『……ここで総督府からの緊急声明をお伝えします』
それまでとは打って変わって何やら穏やかならぬ様子を感じ取り、ナナリーは立ち止まってモニターを見上げた。
『軍部はテロリストの潜伏するサイタマゲットーに対して、クロヴィス殿下の現地指揮の下、包囲作戦を展開中とのことです。六時間後に総攻撃が開始される模様で、関東エリア全域に対し、戒厳令が発令されました。これにより――』
「罠だな」
振り返ると、昨日の状態からは立ち直ったのか、すっかりいつもどおり泰然とした様子のネモが立っている。
「罠?」
「そうだ。私たちをおびき出すための、ね。最初のシンジュクゲットー、次のホテルジャック、クロヴィスは二度も自分の部隊を壊滅させたマークネモにずいぶんとご執心のようだ」
「私……私は、もう嫌です……もう、戦うことに意味なんてないから……」
力を望んだのは、どうにかしてもう一度姉に会いたかったからだ。また昔みたいに、一緒に暮らせる未来が欲しかったからだ。破壊衝動も実の兄に抱いた殺意もブリタニアへの憎しみもその他もろもろの負の感情も、マークネモで人を殺したことも、それが姉に会いに行く礎になるのなら、どれだけ認めたくなくても受け入れることができた。マークネモに乗って戦うことも、心底拒絶しないでいられた。
けれどナナリーは、大義名分をなくしてしまった。すべてを正当化できる言い訳を失ってしまった。そんな状態でマークネモに乗ることなんてできない。
「意味がないなんてことはない。悪いのはナナリーでもお姉さまでもない、ブリタニアだ。ナナリーがお姉さまといることを許さないブリタニアがすべて悪い」
「でも私は、お姉さまを……」
「ナナリーはお姉さまを恨んでなんかいない。それは、ナナリーの心の闇をもらった私が一番良く知っている。マオは自分の都合のいいようにナナリーを誘導しようとして、あんなことを言っただけだ」
「……本当に、そうですか?」
「ああ、本当だ。だから行こう。ナナリーとお姉さまを引き離すブリタニアを壊して、望む世界を作るために」
差し出されたネモの手を、ナナリーはすがるような気持ちで握りしめた。
ネモが言っていることが本当かどうかなんてどうだってよかった。悪いのは自分じゃない。姉でもない。ブリタニアだ。全部ブリタニアが悪いのだ。その言葉を信じれば、決して許されるべきではない自分の罪が消えるからすがりついた。ただ、それだけだった。
トウキョウ租界にはぐるりと環状線が張り巡らされているため、サイタマ付近まで移動することは電車賃さえあれば簡単だ。てこずったのは、最寄の駅からどうやってサイタマゲットーの中に入るかだ。
ゲットーの周囲は、テロリストを逃さないようにくまなく包囲されている。その前を馬鹿正直に通って入るわけにはいかない。何箇所か包囲に穴があるのを見つけたが、どう見ても作られたものだ。通ろうとすれば、すぐ兵士が出てくるだろう。ナナリーの足ならば撒くことは造作もないが、わざわざ危ない橋を渡るよりも、下水道にもぐってそこからゲットーの中に侵入することにした。
日本侵略後地下に新しく下水道が整備されたのは租界下だけだが、それはもともとエリア11が日本だったころにすでにあったものに手が加えられたものだ。そのときにゲットーと租界をつなぐ通路はふさがれたはずだが、テロ組織が潜伏していたというのなら、どこかに脱出用の抜け穴が作られていてもおかしくない。
地下にもぐる前に買った懐中電灯で下水道の中を照らしながら、目を凝らして抜け道を探す。余人を警戒していたこともあってかなり時間はかかったが、ナナリーは何とか抜け穴を見つけることができた。
あまり大きくはないその穴をくぐると、もう何年も使われていない涸れた下水道に入った。そこを走って地上に続く道を探していると、かすかな音とともに地面が揺れて、天井から剥がれ落ちた欠片がぱらぱらと落ちてくる。
「始まったみたいね」
「ネモ……」
「さあ行くぞ、ナナリー」
言われるままにナナリーは、ネモに体を明け渡した。
「くっ……!」
たった一騎のナイトメア相手に、マークネモは苦戦していた。
戦場に乱入した最初は、旧式の重火器しか持っていないテログループを圧倒――いや、虐殺していたナイトメアを数体撃破して、憎いブリタニア軍の戦力を削ることができた。どれだけの戦力が出てこようと、すべて倒すことができると思った。
けれど、あの白いナイトメアが出てきたとき、そんな余裕は崩れ去った。こうして対面するのは三度目だが、対峙するのは二度目だ。なぜかこのナイトメアはブリタニア軍属のくせに、ホテルジャックのときは戦うより人質を助けることを優先して動いていたからだ。
戦うよりも人命を優先するならば、いくらでも倒しようはある。そう思っていたのだが、いつの間にかマークネモは自分でも気づかないうちに、テログループもブリタニアの他ナイトメアもいないところに誘導されて、一騎打ちに持ち込まれていた。
機体性能も操縦技術も同レベル、そしてギアス能力が追いつかないほどのスピードで動く。確かにマークネモ相手には最適だったかもしれないが、あくまでも一騎打ちでの戦力は拮抗しているのだ。苦戦はしても、討ち取られるほどではない。むしろ一騎打ちならば、エネルギー切れを心配しなくてもいいこちらの方が有利だ。
「なめられたものだっ……その余裕、後でじっくり後悔するがいい!」
何を思って一騎打ちに持ち込んだりしたのかは知らないが、あくまでこのまま戦い続けるつもりなら、間違いなく勝つのはこちらだ。
苦戦していてもナナリーはそう確信していたし、実際何事もなく進んでいればそうなっていたはずだ。
そう、白いナイトメアの後方約百メートルのところに、姉の姿を見つけることさえなければ。
「なっ……お姉さま!?」
なぜこんなところに姉がいるのか。見間違いかと思ってカメラをズームさせるが、それは疑念を確信に変えるだけだった。そこにいたのは間違いなく姉だった。
ナナリーが驚きのあまり動きを止めた一瞬を、白いナイトメアは見逃しはしなかった。
気づいたときには遅かった。白いナイトメアが振るった剣は、回避しようとするもむなしくマークネモの胸を貫いていた。
それでもまだ、完全に負けたわけではなかった。剣がマークネモを真っ二つに両断する前に抜け出せば、破損がひどくとも勝機はある。
しかしそうしようとしたとき、ナナリーは見てしまった。おそらくはテロ組織の旧式重火器が放った砲弾が姉のすぐ近くの廃ビルに当たり、それによって崩れた瓦礫が姉の上に降りかかろうとするのを。
「お姉さま、だめ、逃げてええええええっ!!」
ナナリーは剣に貫かれていることも忘れて、マークネモを前に進めた――それが間違いだった。下手に動いたせいで刺さったままの剣は、コックピットにいたナナリーの足を傷つけた。
「あああああああっ!!」
人命を大事にすることは敵機であろうと関係ないのか、白いナイトメアは慌てて剣を引いた。
そのおかげで足が切断されることこそまぬがれたが、両足は骨まで見事に切り裂かれて数センチ残った肉で何とかつながっているというひどい状態だった。激しい痛みに、目の前が真っ赤に染まる。今にも消えそうな意識の中でナナリーは、降りかかる瓦礫から姉を突き飛ばす誰かの姿を見た。どこかで見た覚えがある。あれは誰だっただろう。帽子の中からこぼれる一房の、黄緑色の髪は。
いや、大切なのはそんなことではない。こんな戦場で、生身の姉がどうやって身を守るというのだ。子どものころだって、三歳も年下のナナリーより運動神経も体力も格段に劣っていたあの人が。
「お願い、ネモ……私のことはいいから、お姉さまを……お姉さまを守って……」
ネモにそう頼んだのが、意識あるうちの記憶に残る最後。