人気のない通路を歩いて、メディカルカウンセリングルームに向かう。呼び出された理由は分かっている。「余計な記憶など勉学の邪魔になるだけだ」と言ったキースに、ジョミーが喧嘩を売ったからだ。キースのことは大切な友達だと思っているけれど、ああいう気遣いに欠けたところは嫌いだ。ジョミーが過去の記憶に執着していることを知っているのに、キースはあんなことを言うのだ。それを気遣いに欠けていると言わず、何と言うのだろう。
忘れてしまった大切な記憶。ジョミーはそれを思い出したいと思って、キースはそれを不要だと言う。
どちらが正しいかと言われれば、それは間違いなくキースなのだと分かっている。この体制の中では、幼いころの記憶など不要なのだと定められているのだから。
(でも……それでも僕は……)
忘れたくなかった。そう思うことは、そんなにもいけないことなのだろうか。
考えているうちに、目指す部屋の扉の前に着いた。
「……ジョミー・マーキス・シン、入ります」
部屋の中に一歩足を踏み入れると、美しい黒髪の女性の姿をしたマザー・イライザがふわりと目の前に出没する。
『ようこそ、ジョミー』
優しげに微笑んだ彼女から、ジョミーはうつむいてそっと目を逸らした。
少し前までの彼女は、ジョミーを育ててくれた母親に似た女性の姿として現れた。けれど、今は違う。それはおそらく、ジョミーがもう母親の顔を思い出すことができなくなったことに起因するのだろう。
目の前にいるマザー・イライザは、毎夜のように見る夢の中に出てくる”フィシス”という美しい少女に似た姿をしていた。この夢は、ジョミーがまだアタラクシアにいた頃から見ていたのを覚えている。薄れていくばかりの記憶の中で何故かこの夢だけが鮮明で、今もずっと同じように夢を見る。
けれど、夢を覚えているからと言って何になるのだろう。ジョミーが覚えていたいのは、思い出したいのは、過去にあった現実なのだ。夢の中の美しい少女なんかよりもずっと、ジョミーは大好きな母親の顔を覚えていたかった。
けれどもう思い出せない。今ここにいるマザー・イライザの姿が、その証だった。
『呼び出された理由は分かっていますね?』
うつむいたまま黙り込んでいるジョミーの頬に、実体のない白い手が触れてこようとする。それがひどく厭わしく思えて振り払おうとするが、触れることのできない彼女はそれに邪魔されることなく、そっとジョミーの頬に触れるような仕草をする。
(……気持ち悪い……)
親しい女性の姿に似せて現れて心を懐柔しようとする手管も、心を見透かしたような物言いも、生徒全てを管理しようとする傲慢さも、勝手に人の記憶を消す行いも、浮かべている聖母めいた美しい微笑さえも!吐き気がするほど気持ちが悪い。何故皆は、こんな機械に自分を管理されていることが平気なのだろう。
ジョミーが歯を食いしばって黙り込んでいると、マザー・イライザはなだめるような声で言った。
『ジョミー……貴方は人を導くに相応しい能力を持った子。このまま進めば貴方には、誰もがうらやむ未来が待っているのですよ。貴方の成績なら、ここを卒業するときには必ずやメンバーズ・エリートに選ばれることでしょう』
それでもジョミーが黙り込んでいるのを見ると、マザー・イライザはそっとジョミーの頬から手を離して、しなやかな繊手を一振りする。そのとたん、周囲が闇に包まれる。否、完全な闇ではない。吸い込まれてしまいそうな深い藍色をした闇のあちこちには、ちかちかと星の光が小さく明滅している。これは宇宙だ。
何がしたいのだと思ってマザー・イライザに目をやると、彼女はふわりと微笑んで右手を差し出した。するとその広げられた手のひらの上に、青い球体が出現する。誰に言われるまでもなく、地球なのだと理解した。
『見て、ジョミー……美しいでしょう?』
水の蒼。大陸の部分には土の茶と植物の緑。厚薄様々の雲がそれを取り巻いて一つの惑星を形作っている。それは確かに、美しい惑星だった。
『メンバーズ・エリートに選ばれれば、この美しい惑星に住む権利が与えられるのですよ』
そう言って、マザー・イライザは手のひらに浮かべた小さな惑星をジョミーに向かって差し出してくる。
差し出されたそれを、ジョミーは黙って手を伸ばして受け取ろうとした――ように周囲からは見えたのだろう。マザー・イライザは満足げに微笑んで続ける。
『過去など、学びの妨げとなるだけ……忘れてしまうのです。そして地球のために……』
しかし続く言葉は、最後まで語られることなく宙に消えた。差し出された小さな地球を、ジョミーは手にした瞬間乱暴に薙ぎ払ったのだ。
『なっ……』
絶句するマザー・イライザを睨み付けたジョミーは、怒りに握りしめた拳を振るわせながら口を開いた。
「こんなもの……僕はいらない!僕が欲しいのは過去の記憶だ!返せよっ!!」
手に届きそうな地球よりも、ジョミーは過去を思い出したい。誰もが夢見る惑星も、この切望の前には無意味なのだということなんて、きっとマザー・イライザには分からないのだろう。
彼女はゆっくりと瞼を下ろして、ため息を吐くようにして囁いた。
『……残念です、ジョミー』