りーぴ 誰も知らない

 最近、シロエ及びトォニィ以下シャングリラで生まれた子どもたちと、ジョミーとの間には、何とも言えないような緊張感が漂っていた。
 それは一月ほど前からのことで、正確に言えば、シロエの体調がすっかり回復した日からである。しかしだからと言って、シロエの体調回復がその原因かというと、それは大きな間違い。問題は、回復したシロエがトォニィたちを巻き込んでしようとしていたこと――シャングリラの外に出て、ジョミーが死にそうになった原因である人間に復讐しようとしていたことだ。否、話を聞いた限り、シロエは決して望んでアルテラたちを巻き込んだわけではないらしいのだが、それはともかくとして。
 幸いにも、シロエたちがシャングリラを出る前に、ジョミーは彼らを止めることができた。シャングリラは元々、ジョミーが現実の森を真似て創った世界だ。外と空間が繋がろうとすると、そのことがジョミーには何となく感覚で分かる。だから、外とシャングリラを繋ぐ扉が開こうとする直前に、何とかそれを阻むことができたのだ。先にも述べたとおり、シャングリラはジョミーが創った世界。誰かが扉を開こうとしても、世界の創り手たるジョミーがそれを拒めば、外と空間が繋がることはない。
 止めたことで、ジョミーはアルテラたちから猛反発を食らった。ジョミーを傷つけた人間に復讐することの何が悪いの、と。復讐するために必要な力を手に入れようとして、トォニィと同じように体を成長させたアルテラたちの怒りは、子どもの姿をしていたときとは違って迫力にあふれていたけれど、それでもジョミーは止めたことを後悔したりはしなかった。
 外は、ミュウにとって決して安全な場所ではないのだ。普通に出歩くだけでも危険なのに、わざわざミュウの存在を知っていた男――そのことだけで政府でかなり上の位置に属している相手だと分かる――に復讐に行くだなんて、返り討ちにあって怪我をする可能性がないわけではない。
 そう言って説明したのに、アルテラたちは、人間なんかに負けたりしないと言って話をまともに聞こうとしなかった。そして話し合いは平行線をたどり、その結果シャングリラ内では、ジョミーとアルテラ以下の子どもたちが、珍しくも仲たがいをしている光景が見られるわけである。
 ちなみにシロエは、復讐しに行こうとしているのを見つかったところで、賢明にも口をつぐんで余計なことは何一つ言わず、ジョミーからのお叱りにも、腹の内で何を思っているにしても表面上は神妙な顔で頷いていて。トォニィは、二言三言言い訳をしたのだが、ジョミーの冷たい視線にさらされたとたん、必死になって謝ってきた。なので、復讐という気晴らしよりも、ジョミーの機嫌を損ねないよう動いたこの二人まで仲たがいに巻き込まれているのは、とばっちりと言えないこともなかった。



◇ ◇ ◇



「ん?」
 保育ルームで子どもたちの遊び相手をしていたジョミーは、トォニィの感情が妙に騒がしいことに気付いて、しんなりと眉を顰めた。とは言っても、印象的なオレンジ色の姿は現在、この室内には見当たらない。ではなぜそんなことが分かるのかと言えば、一ヶ月と少し前にジョミーが死にかけたとき、トォニィが取った行いのせいである。
 かつてジョミーがブルーの命を延ばすためにやったことを真似て、トォニィはジョミーの命を助けた。その際に、ジョミーとトォニィとの間にチャンネルが開いてしまったのだ。普段はどうといったこともないのだが、感情が大きく動いているときなどは、その揺れが相手に伝わってしまう。だからジョミーは現在、この場にいないトォニィの感情の動きを感じているのだ。
(やけにうれしそうだな……珍しい)
 ここ一月ほどの間は、じめじめした鬱々しい気持ちしか伝わってこなかったのに、珍しいこともあるものだと思っていると、今度は心配そうな感情が伝わってくる。そうかと思うと困惑したような気持ちが伝わってきて、また反転してうれしそうな感情が伝わってくる。
(……鬱陶しい)
 めまぐるしく変わっていく他人の感情をまざまざと感じてしまうのは、その言葉以外に相応しい思いをもたらすことはない。思わず顔を引きつらせていると、子どもの一人がきょとんとした顔で声をかけてきた。
「ジョミー、どうかしたの?」
「え?いや、別に……」
 その呼びかけに、自分が一人ではなかったことを思い出して、慌てて表情を取り繕う。しかし、トォニィから伝わってくる感情は、いっこうに落ち着かないままだ。
(いったい何をやっているんだ、あいつは……)
 思わずため息を吐くと、子どもたちが心配そうに見つめてくる。その子どもたちと、トォニィとを天秤にかけて――ジョミーが選んだのは、もちろん後者だった。ブルーが眠っている間は、彼の代わりにシャングリラを守ろうと必死になっていたから、どの子どもたちも平等に扱おうと心がけていた。それが行動に反映していたかといわれると……少しばかり怪しいが、とにかくそうしようと努力していたことは確かだった。けれど、ブルーが――ミュウの長が目を覚ました今となっては、誰かを特別扱いすることにジョミーがためらいを覚える必要はない。
 だから、申し訳ないと思いながらも、ジョミーは言った。
「すまないが、少し用事を思い出したんだ。また遊びに来るよ」
 それを聞いたとたん、子どもたちはいっせいに不満の声を上げる。ジョミーはすまなさそうな笑みを浮かべながらも、その言葉を翻すことはせず、保育ルームを後にして早足に歩き出した。すでに目的の居場所は確認してあるので、トォニィの自室へ向けて。
 今は喧嘩中――と言うと、なんとなくニュアンスが違う気もするが、とにかく仲たがいをしている最中なので、放っておいてもよかったのだが、この鬱陶しい状態が続くのは勘弁してほしい。それに、トォニィはちゃんと『ごめんなさい』を言ったのだから、いい加減許してもいいかと思ったのだ。
 保育ルームと居住区は、割合近いところに位置している。特に、子どもがいる家族の部屋は保育ルームに近い場所にある。最近になって個室を与えられたトォニィだが、それは親子で使っていた部屋のすぐ近くにあるので、早足に進んでいると、トォニィの部屋にはすぐにたどり着く。
 部屋に入る前に、儀礼上ノックをしてみるが、聞こえなかったのか、それとも無視しているのか、返事はない。仕方ないとため息を吐いて、ジョミーは部屋の扉を開けた。
「トォニィ、何を騒いでいるん、だ……?」
 足を踏み入れた先で目に映ったのは、トォニィが、どう見てもジョミーにしか見えない半透明の人物を抱きしめている光景だった。それがあまりに予想外のもので、思わず歩みを止め、途中で言葉を詰まらせかけたジョミーだが、すぐに事態を理解して、止めていた足を再び動かして、二人との距離を詰めていく。
「そうか、今日だったのか」
 小さく頷きながら、半ば無意識にトォニィを叱り付ける。
「トォニィ、いつまで抱きついているつもりだ」
「……はーい」
 精神だけで時を渡った、もう十何年も前の出来事を思い出す。裏切られたと思った。信じていたのに、ひどいと思って――だから逃げた。そのときはまだ、どうして自分があんなにも深く傷ついたのか、ジョミーは自覚していなかった。今、精神だけでここにいる過去の自分は、ブルーへの思いを自覚していないのだ。そのことに思い至ったとき、ジョミーの心臓は大きく震えた。
 今なら、過去を変えることができるのではないか。その可能性に思い至って。
 そうやって、物思いにふけっていたせいで、ジョミーはこのとき過去の自分の身にどんなことが降りかかったのか、すっかり忘れてしまっていた。それを思い出したのは、声にならない声が聞こえてきた後だった。
「っ……!?」
 物思いから正気に返って顔を上げると、トォニィが過去のジョミーに抱きついたまま、にこにこと笑っているのが目に入った。その腕の中にいる過去の自分に目を移すと、口元を押さえて目を白黒させている。
「今はまだ十四歳なんだよね、ジョミー。あと十年ぐらいで会えるから、待っててね」
(そうだ……確かこのとき……)
 そう、このときジョミーは、トォニィにファーストキスを奪われたのだ。あのときは、混乱の方が大きかったためそれほど怒りを覚えはしなかったが、その分の怒りが今になって湧いてきた。
「あ、初めてだったんだ。やった!」
「……トォニィ……僕がいることを忘れてないだろうな」
 無邪気な喜び声を上げているトォニィに、地を這うような低い声を向けてやると、トォニィはぎくっと体を強張らせて、慌てて過去のジョミーから離れた。そして、しゅんと落ち込んだ表情になって、すがるような視線を向けてくる。
 それだけで怒りが萎えてくる自分に呆れを抱きながら、ジョミーは大きなため息を吐いた。
「……叱るのは後だ。とりあえず、こっちを先に済ませよう」
 ジョミーはトォニィから視線を外して、過去の自分に目をやった。これを三百年前の過去に飛ばすことをしなければ。あるいは、三百年前に向かわせても、余計な知識を与えなければ。あんなにも苦しい思いをすることは、なかったのかもしれない。過去を改変するチャンスが、すぐそこにある。それは、とても甘い誘惑だった。けれどその誘惑を振り切って、ジョミーは笑いながら、過去の自分の肩に手をかけた。上手く笑えているかは、分からなかったけれど。
「一番初めに飛ばされたところで見た光景、覚えてる?」
『は……?』
 この先の言葉を言わなければ、きっと過去は変わる。あんな苦しみを味わうことも、きっとない。けれどその代わり――おそらく、ブルーは死ぬ。そんな道を選ぶことは、ジョミーにはできなかった。
「ミュウは、植物からだけじゃなくて、人間からもエネルギーを摂取することができるんだ。でも、それは普通の食事とは違って、自分の生命エネルギーを他人に分け与えること――つまり、自分の命を他人に分け与えることだから、ほとんどのミュウは本能的にそれを拒否している。でも、双方の間に深い絆があれば、不可能じゃないんだ……このことを、忘れないで」
 目の前にいる過去の自分はまだ、今の自分を長いこと苛んできた苦しみを知らない。己の傲慢さも、捻じ曲がってしまった気持ちも、何も知らない。この頃に戻ることができたら、どれだけいいだろう。己の醜さなんて知らず、綺麗なだけの気持ちを信じていられたら、どれだけよかっただろう。
「もしかしたら、君は僕とは違う未来を選ぶのかもしれない。それでも、この可能性だけは覚えておいてほしい。僕が選んだこの道は、間違っているのかもしれない。でも僕は、どうしても失いたくなかったんだ。だから……」
『……何を言って……?』
「さあ、何だろうね」
 ジョミーは自嘲するように笑った。自分の気持ちが分からないと言いながらも、ブルーが死ぬ過去を選ぶことができない今の自分が、滑稽だった。
「……もう、行くといい」
 不思議そうな顔をしている過去の自分を、これ以上見ていたくなくて、ジョミーはそっと触れている肩を押した。三百年の過去に行くよう、サイオンを込めて触れた手の先で、過去の自分はまるで霧のようにいなくなる。
 それを見送ったとたん、膝からがくりと力が抜けた。
「……あれ?」
 どうにも状況が理解できなくて、間の抜けた声が出た。
「ジョミー!」
 床に転がる前に、慌ててトォニィがジョミーを支えようと腕を伸ばしてくるが、その前に誰かの腕がジョミーを抱きとめた。
「気をつけなさい。人一人の時を越えさせたのだ。疲れても無理はない」
「……ブルー?」
(どうしてここに……今は、会いたくなかったのに……)
 そう思って、思い切り顔をしかめて視線を上げると、心配そうな顔をしたブルーと目が合う。それがとても近いことに気付くと、今度は、自分たちが抱き合っているような体勢になっていることにも気付いた。気恥ずかしくて、離れようと腕に力を込めるが、体に力が入らない。そこでようやくジョミーは、自分がどれだけ大きな力を消費したのかということに思い当たった。
 本来、時間を越えるというのはありえないことである。それを覆そうとすれば当然、大きな力が必要となる。時を渡るということを過去に経験していたせいか、ジョミーはどうもそのへんの感覚が鈍っていたのだが、あのときは自分でやろうと思って時空をさまよっていたわけではなくて偶発的なものだったので、大した力を使うことはなかったのだ。
(もう少し、考えてやればよかった……)
 そうすれば、こんな無様な姿をさらすことはなかったものを。そう思ってため息を吐く。
 ジョミーが自省している上では、ブルーとトォニィが大人げない言い合いを繰り広げていた。
「このクソ爺!勝手に僕の部屋に入ってくるな!」
「では、ジョミーが床に倒れるのを黙って見ていろと?ひどい子だね、君は」
「子どもって言うな!大体、お前が来なくても、僕がちゃんとジョミーを支えた!それに、何でこんなにタイミングよく現れることが……まさか、覗いて……?」
「失礼なことを言うのはやめたまえ」
 ブルーは即座に否定したが、どうしてこんなにタイミングよく現れたのかと言われてみれば、かなり不自然だ。ジョミーが胡乱な目で見上げると、ブルーはため息を吐いて言った。
「ジョミー……考えてもみたまえ。命の受け渡しをしたことで、君とその子どもとの間につながりができたと言うのなら、僕と君との間にも同じ現象が起こっていても不思議ではないだろう」
「でも、ブルーの気持ちなんて全然伝わってこないのに……」
「僕は君と違って、思念の制御は得意なんだ。よほどのことがない限り、僕の感情が君になだれ込むことはないよ」
「ずるい……」
「そう思うのなら、もっと精進しなさい」
 ジョミーがむっとした顔でにらみつけると、ブルーはするりと指で頬を撫でてくる。
「ジョミーに触るな!」
 トォニィが騒いでいるが、ブルーはさらりとそれを無視して、それは美しい笑みを浮かべて言った。
「ところでジョミー、キスをしてもいいかな?」
「はあ!?」
 ジョミーとトォニィの声が重なった。突然何を言うのだと思って呆然としていると、ブルーがにこにこと笑いながら言う。
「何って、消毒だよ。今……とは言っても、君にとっては十四年前だが……まあ、今の分と、僕が起きた日の二回。君はこの子にキスをされたから、それを消毒しないといけないなと思ってね」
「消毒って……」
 まるでトォニィがバイ菌みたいな言いようだ。そんな的外れなことを考えて黙っているジョミーの代わりに、トォニィが思い切り反対の声を上げる。
「駄目だ!絶対に駄目!ジョミーは僕のなんだから、爺は引っ込んでろ!」
「爺とは、汚い言葉を使う。年寄りはいたわりたまえ」
「あんたみたいな色ボケ、爺で十分だ!」
 放っておけば延々続きそうなので、ジョミーは仕方なく口を挟むことにした。
「二人ともストップ。ブルー、トォニィが汚いものみたいに言うのはやめてください。トォニィも、爺なんて言葉を使うのはやめなさい」
「……はーい」
 トォニィは不満そうな顔をしながらも、良い子の返事をしたが、ブルーは。
「ではジョミー、二度もその子どもに君の唇を奪われた僕の悲哀をどうしろと言うのだ」
 そう言って詰め寄ってきた。
 ジョミーは顔をしかめて、そろそろ体に力も入るようになってきたので、ブルーの胸を押し返した。
「……別に、僕と貴方は付き合っているわけじゃないんですから、そんなこと関係ないでしょう」
 そのまま踵を返して出口へ向かおうとするが、後ろから手首を捕まえられる。
「離してください」
 ブルーの手を振り払おうと振り返った瞬間、何か柔らかいものが頬に触れるのを感じて、ジョミーは何度も瞬きをする。事態が理解できないで、呆然としていると、その何かは頬から離れていって、同時に目の前にはブルーの顔が現れた。
「君がそう言うなら、今はこれで我慢するよ」
 そう言われて、頬をするりと撫でられる。視界の端で、トォニィがものすごい顔をしているのが見えた。
 頬にキスをされたのだと気付いたのは、激昂したトォニィと、それに追われてブルーの二人が室内から姿を消した後だった。
 だから、それに気付いたときのジョミーが顔を真っ赤にしていた事実を、誰も知らない。


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